月だけが見ていた。
――なんてよくある煽り文。
「!!!??」
どうして、そういう行為になってしまったのか、彼にだってわかっていなかった。
彼が判っていないのだから、彼女は特に、だ。
小さくて、いつも見る度、栄養の咀嚼に困るのでは?と思っていた彼女の小さな唇から彼は自分のそれを離す。
彼女はずっと固まったままで、瞳孔が開きっぱなしだった。
“猫に似ているな”なんて彼はふと思って、小さな三毛猫と彼女を重ねて見つめる。
彼が真剣な顔をして、まさかこんなこと考えているなんて、彼女に考えられるはずなんて無かった。
そんな、余裕なんて。
(いいいい、い、今!いま?どう、なったの・・・?)
働き者で有名な彼女だって、何もかも完璧なわけじゃない。
選手に対するソレに比べたら、数はぐんと少ないけれど、彼女だって監督から怒られないわけなくて、
怒られては「マネージャー辞めてしまおうか・・・」なんて思うことを繰り返した。
そんなことを口にしたことは無いけれど。
今日のヘマはとにかく凄くて、監督の怒りも、普段の倍増だった。
選手達の前で何度も頭を下げて、怒られてしまった悲しみと、自分の不甲斐なさに、
それ以降の仕事は目の前が霞んで、ろくに進まなかったのだ。
(選手のみんながあんなに頑張ってるのに、あたし何やってるんだろう…)
溢れる涙を拭いながらの仕事は、いつもの時間には勿論終わらなくて、
練習が終わった後、選手がどんどん帰宅していく中、若菜はひとり居残りを命じられてしまったのだ。
いつも気遣ってくれる先輩達の「手伝おうか?」の声を丁寧に断って、
ようやく終わったのは夜10時。外が真っ暗なのは、当たり前だった。
ため息をつくと、その音が静かに響いて、自分が本当にひとりぼっちだと、実感せずにはいられない。
と、思っていたのに。
彼がこんな遅くまで何をしていたのかは判らない、けれど確かにそこに現れて、いつもの通り無表情で。
「帰るぞ」
進清十朗がそう言って、幾分かたったあと、最初の場面に到る―――
「!?!!!?し、進せんぱいっ??」
何ですか今の何ですか今の何ですか今の!!!
聞きたいことは一つしかないのに、そのたったひとつが声にならない。
だって、だって、
彼女にとって、彼は、古風な言い方で言うところの、“想い人”であって。
彼がその問いにどんな答えを返そうと、平常心を保ってられる自信は無かった。
いや、答えなんか聞かない今ですら、彼女の心は嵐のよう。
それでも、肝心の彼は焦りなんか、微塵も見せない。
「若菜」
低い声が聞こえて、少しだけ自分を取り戻す。
この声に、いつだって安心する。
「お前は、よくやってくれるマネージャーだ。王城にとって、お前を失うことは大きな損失だと、正直思う」
何を言っているのか、最初は判らなかったけれど、
「だから、叶うなら、チームのためにここを去らないで欲しいと思う」
そっか、慰めて、くれてる――。
不器用なんだか、なんだかよく判らない、彼の行動。
「先輩、さっきの、その・・・キスは?」
「お前を引き止めるのに最善な方法をと思っただけだ、・・・・・・」
嬉しいような、ちょっと、がっかりしたような、自分でもどう表現したらいいのか難しい笑顔を彼女は見せた。
「先輩、多分それ、間違ってます…」
そうか、なんて、なんでも無かった様な顔をして、彼はようやく彼女から少し離れた。
どんな形でも、彼が自分を必要としてくれるなら、ずっと満足だと、彼女は彼の背中に小さく微笑んだ。
「・・・それと、体がそう動いただけだ・・」
自分の気持ちがどう動き始めているのか、まだまだ気付くようでない彼の呟きを、彼女は聞いてはいなかった。
それは、月だけが知っている、ということで。